27日から28日にかけて
東日本大震災の被災地へ行ってきた。
東京まで、関空から飛行機で
東京から仙台駅まで新幹線を使って
そこから、2つ目の駅で
NCN専務の藤井さんと出会って
まずは、NCN東北支店の事務所へ
そこから、日本3大景勝地の松島へ
ここには、SE構法で建てた
店舗兼住居があります。
海辺から60mほどの位置、
当然2mほどの津波の浸水がありました。
しかしながら、店舗部分の窓が1枚割れただけで
(もちろん、商品、機械等浸水してますが)
建物には被害が無く、
すでにゴールデンウイークから営業を再開されています。
周りの、店はほとんどまだ閉めたままなのですが、
さて、
そこから石巻へ
ここは、日本の合板の30%のシェア工場が2つありましたが
2つとも全壊してしまい、
住宅業界にショックを与えたところでもあり
水産業の加工場がたくさんあったところです。
そこに向かうとちゅう、
かなりショックなものが
広場に等間隔に添えられた花束が数えきれない数。
もう、声が出ません。
石巻につくと、魚の腐ったにおいのなか
人々が懸命に復興のために動いています。
しかし、ひどい!!!!
津波がすべてをさらって行った様子がまざまざと。
、、、、、、、、、、、、、、。
翌28日、
花巻から
大船渡市へ
ここには7.5mの津波にも耐えた
SE構法の物件があります。
よく見てください、
周りにはなにも残っていません。
しかし、この建物はのこりました。
7.5mの津波にも耐え
しかしながら、住むためには様々な問題があるようです。
この地区が住居を認めるようになるのか?
電信柱がこんな状態です。
いかに、津波の力が強かったのかが解ります。
周りはこんな状態です。
なんにもありません。
海岸線から数キロはなれたところに
巨大な船が未だにあります。
さて、隣町の
陸前高田市へ
ここは、、、、、
街がすべて壊滅していました。
残骸はかなり片付けられているので
見渡す限り
`平野`です。
市が、街が全体が
すべてなくなっていました。
野球場が、半分以上海になっていました。
海岸線から5キロ以上も内陸まで
すべて何もなくなっていました。
地元の事をよく知るひとから
『この線より下には住んではいけない』という石碑が
数十個もあるそうです。
しかし、数十年の月日で
その存在語りつがず、
防波堤が建設されたからと
災害を甘く考え、
せっかく過去の人々が残してくれた犠牲の上の教訓をないがしろにした結果
このような惨事になってしまったのでしょう。
行政がその事をしっかり把握して
『この地域は、津波が数十年に1回必ずくるので住居禁止地域』と指定し
開発を禁止していればこのような悲惨な事態は避けられたのではないのか
これは、行政による人災ではないのか
そう、思えてきました。
過去の教訓、先人たちの教えをちゃんと
Social Memory
社会の記憶
として受け継いでいたなら、、、、
そう思われて仕方ありません。
自衛隊の方、警察のかた
ボランティアで作業されている方
本当に頭が下がります。
まだまだ、復興までかなり時間がかかりますが、
できる事で、応援して行きますので
がんばってください。
笹川